七たび生れ変っても 我、パ・リーグを愛す──30年待って、熱パ時代がやってきた。

雑誌『ナンバー』(No.19/1981年1月20日号・文藝春秋刊)より 宮田 親平

日本ハムの後期優勝が決まるかもしれないという昨年、対近鉄戦の10月7日、ぼくは後楽園球場ジャンボ・スタンドのてっぺんで、「長年のパ・リーグファンを遇するにはひどすぎるぞ」と、球の行方もよく見えない最悪の席に内心愚痴りながら、しかしいささかの満足感を持って、“熱パ”5万人の大フィーバーを見下ろしていた。

この日はすべてがふだんと違っていた。パ・リーグの試合は大体、いつ行っても、望み通りの席が手に入る。ところが、6時前に着いた球場の切符売り場は、もう長蛇の列だった。

信じない向きもあるかもしれないが、日本ハム戦には、いつもダフ屋が出ている。ただし、このダフ屋は常態に反して切符を正価より安く売るのである。よく判らないが、日本ハム親会社がサービスに、恐らくは食料品店などにタダでバラまいたであろう切符を集めてきて、売りつけているのかもしれない。でもぼくは、ダフ屋氏の努力には敬意を払っても、少々の経済的損失は承知の上で、断乎として正規の切符を買う。この赤字チームを引き取り、運営してくれている大社オーナーへの心からの感謝の意を籠めて、だ。

ところが、この日の闇切符は、ダフ屋は正常の業態通り、ちゃんと高く売っていた。これが第一の驚きだった。指定席はすべて売り切れ。やっと内野自由席を買って入場したのだが、6時前すでに満員寸前で、あわや札止めの憂き目に遭うとこだった。これはぼくのパ・リーグファン人生でほとんど初めてのことである。

超満員の観客を見下ろしつつ、しかし、これはおかしいな、と思っていた。悪いけれど、こんなに日本ハムファンがいる筈がないのである。ぼくはガラガラの球場で試合を見ることに慣れてしまっている。たまに日曜日など満員に近い観衆で埋まる時があるが、それは例の少年ファイターズのチビッコ会員諸君のおかげである。将来はともかく、彼らの多くはまだ野球をまるで知らない。試合をそっちのけで通路をウロチョロしている。子供にせがまれてお伴してきたであろう、所在なげにお弁当を開けたり閉めたりしている若いお母さん。試合はもう一つもりあがらない。

時おり、他球場の途中経過のアナウンスが聞こえてくる。
「ヤクルト対巨人は、2対4で巨人がリードしました……」
ワーッという大喚声。これじゃ、パ・リーグの選手はあまりにかわいそうだ。

恐らくは、今日のこの中の“にわか日本ハムファン”諸氏は、大沢監督の胴上げというショーを見にきたのであろう。結局、日本ハムはあいにく惜敗したが、それはどうでもいい。ぼくは別段日本ハムファンではないのだから。しかし、試合は稀にみる好ゲームだった。隣りのアベックの男が口走った。
「パ・リーグの方が面白いなあ」
嬉しい言葉だった。ぼくは、彼らにぼくがこの試合を見せてあげているのだとでもいいたい優しい気分になって、ひとり大きくうなずき、彼らの幸福を祈ったのである。

全くぼくはまるで“パ・リーグ会長”だ。

多くの野球狂がそうであるように、ぼくはスポーツ欄から紙面を見ることが多い。といって、勝敗には格別の関心はない。では何を見るのか。観客動員数のみである。パ・リーグはほぼセ・リーグの半分だ。数年前までは、三分の一がいいところだった。

一年に一度か二度、全試合が行なわれていて、パがセを上まわることがある。これには条件が要る。広島か巨人が独走していて、この両チームの試合が広島球場で行なわれる日。これが満員になるのは致し方ないとして、広島球場は器が小さい。そして、この時、巨人によりかかっているセの他チームは満員の客を集めることができない。他方、この日、パ・リーグが後楽園と西武球場で、日本ハム、西武両チームが“営業努力”によってほぼ満員の客を集めえた時。これに関西で首位を争う好ゲームが加われば、ようやくパはセを上回る。

ぼくの記憶では、一昨年は二日、昨年は連日上回った終盤を除けば一日だけあったような気がする。この日、ぼくは一日中口笛を吹きたいように爽快な気分に満たされる。

だから、ぼくにとって大方のスポーツ紙の一面は白紙のように無縁である。テレビを見たり、ラジオを聞いていたりするのは、パ・リーグの途中経過を知る、というただ一つの目的のためにすぎない。パ・リーグの全チームのライン・アップはもちろん、二軍選手まで相当の知識を持っているつもりだが、もし誰かに、「いま、巨人の監督は? 四番打者は?」
と訊かれても、
「知らない」
としか答えようがない。ぼくにとってセ・リーグというのは「存在しない」のだから、存在しないものについては知りようがないのである。

むろん、セの試合はただの一度も見たことがない。ただ残念なことに、一度友人に連れられて日本シリーズを見に行ってしまった。当然のことながら、日本シリーズにはセのチームが出てくる。セの野球というのは、何か三角ベースの草野球のようなものでもやっているのかと思っていたら、小癪にもちゃんと同じ野球をやっているのを見てしまったことが生涯の痛恨事となった。

'80年代はパ・リーグの時代であれ。
パ・リーグは民主主義精神の具現である

パ・リーグのチームはみんな好きだ。もしかしたら、ぼくは本物のパ・リーグ会長よりも、パ・リーグを愛しているのかも知れない。

なぜ、かくもパ・リーグを愛するか。

昭和二十五年、プロ野球は2リーグに分裂した。ぼくは大下のファンだった。毎日新聞が旗振りとなり、太平洋野球連盟が誕生してセントラル野球連盟と対峙した時、当然のようにぼくは東映フライヤーズの属するパ・リーグファンに移行した。しかし、この時、フランチャイズ地図を見渡しつつ、ぼくには大きな危惧があった。西鉄の博多はよい。しかし、中京の大市場を独占する中日がセに加わったのはまずい。何よりも関西に三球団がひしめいているのは致命的だ。このこととは少々矛盾するが、最後まで去就に迷ったといわれる人気チーム、阪神がセに踏み切ったのは痛かった。ぼくはパ・リーグ崩壊を予覚した。そして、その予覚ゆえにいっそう、パを支援しなければならないと固く誓った。

それに大下と川上。この国の風土はなぜか天才型崩壊をくりかえさせている。信長と家康。ズングリ無愛嬌努力守成型が最後の勝利者の席をかちとる。秀吉が両者の性格をいくぶんかずつあわせ持っていた中間型だったのは面白いが、将棋でいえば升田と大山。ぼくは川上=セ・リーグの成功型に対して、宿命的に大下=パ・リーグの崩壊型を背負い込んだことになるだろう。

余談だが、ぼくは幕下時代に富樫といったのちの柏戸を見出した。カミソリのような切れ味鋭い相撲に惚れ込んで、以後熱を上げた。遅れて大鵬が進出してきた。マスコミは「柏鵬時代」とはやしたてたが、ぼくはこの時すでに柏戸に崩壊の予感を嗅ぎとった。果たせるかな、大鵬に追いつき追いこされ、忽ち「鵬柏」と逆転してしまった。ぼくはそれでも心の中で「柏鵬」とつぶやきつづけた。

その柏戸が体調を崩して長く休場した時、ぼくは誰よりも心配した。ある日、偶然にも、当時その言葉もまだ珍しかったリハビリテーションの技術を日本に教えにきていたアメリカ人の女性に会った時、彼女が「柏戸」と大書された湯呑みでお茶を飲んでいるのを見つけた。柏戸の大ファンなのだと告白した。
“Why ?”

“Kashiwado is sad!” ぼくの英語力の貧しさから、会話はすこぶる象徴的になってしまったが、どうやら土俵上で見せる柏戸の悲しげな表情が、女心を揺さぶっているらしかった。そして、愛する柏戸の体調を心配している。専門家として治療してあげたい気持ちで一杯なのだと訴えた。ぼくは彼女を柏戸に紹介しようと即座に決意した。

冷雨の降る寒い冬の一日、ぼくは両国の伊勢ノ海部屋の玄関に立った。
ぼくはバカだった。相撲は閉鎖社会である。仲介者がなければ何一つ用が足りない。悪いことにその時のぼくの名刺は週刊誌記者のそれだった。現われた弟子が名刺を奥に取り次ぐや否や、たちまち、「いかんいかん、週刊誌記者なんか入れちゃいかん。いないと言うんだ」
という大声が伝わってきた。人の好さそうな弟子がウロウロしながら、すまなそうに、
「ホラ、いないと言ってますよ」
ぼくもバカだったが、伊勢ノ海親方さん、あんたもひどいよ。

毎日新聞が手を引き、マスコミに見放され、黒い霧事件では謀略のように西鉄、東映などのパのチームが狙い打ちされた。ぼくはいよいよガラガラの球場で一生懸命プレーをする選手たちを応援した。パの試合には、なかなかつきあってくれる友人がいなかった。ぼくは一人で出かけた。勝敗の帰趨などどうでもいい。ハッキリいえば、野球などどうでもいいのである。ただ一人でも観客をふやしたい一心に、である。バカバカしいと笑わば笑え。巨人戦は連日の満員を告げていた。同じ野球をやりながら、ドラフトやトレードで、偶然にもパに属している選手たちである。ぼくは、この甚しい社会的不公正に激しい憤りを覚えながら、テレビに映らないいとおしい選手たちの姿を追っていた。

“パ・リーグ会長”は僭越だから、この頃から、代りにぼくは“パ・リーグ振興連盟事務局長”を心中深く任じてきた。規約案はすべてわが腹中にある。二、三紹介してみたい。

一、「セ・パ両リーグ」を「パ・セ両リーグ」に呼び改めさせる国民運動を起こす。 いったい、なぜ「セ・パ」なのか。キノトール氏であったと思うが、かつて、前年の日本シリーズの勝者を出したリーグを上にして、「パ・セ」もしくは「セ・パ」と呼称すべしと提言した。しかし、セ・リーグには錦の御旗があるらしい。太平洋野球連盟は日本野球連盟から分立して誕生したのだから、セ・リーグこそが日本野球連盟の正統の継承者なのだ、と。
しかし、ぼくはその確証を見たわけではない。この点については、ちょうど日本国憲法論争における江藤淳氏のような論客が現われ、分裂の経緯をめぐる資料を精細に分析して堂々の論陣が張られることが望まれよう。

だが、ぼくにいわせればその必要もなく、簡単である。言語学的に「パ・セ」だけが成立し、「セ・パ」はありえないのである。破裂音Pが二音目以下にくるためには、「つまる」こと即ち促音が必要だ。「ラッパ」「カッパ」である。「セッパつまる」とは言いえて妙である。「セ・パ」は「セッパ」としか表記しえない。この解決法は、破裂音を前に置いて、「パ・セ」という以外にない。「パセリ」はあるが、「セパリ」はないのである。

無理に「セ・パ」と呼ぼうとするなら、「セ」も「パ」も明確に発音しなければならない。ところが「パ・セ」なら、「パ」だけをしっかり発音すれば「セ」はあるかなしかの小さな発音だけで足りる。小さなことかもしれないが、一億人が「セ・パ」から「パ・セ」に転向した時、その省エネルギーははかりしれないものがあるといえるだろう。こころみに、キミは一度「パ・セ」と発音してごらん。その自然さゆえに、もう二度と「セ・パ」と口にすることはないであろう。

だいたい、「セ」のつくものにろくなものはないではないか。「先生」「専制」「セックス」「政治」「戦争」。これに対して「パ」は「パラダイス」「パリ」「パン」「パンティ」「パイオニア」。妙なものもあるようだが、おしなべて言えばバラ色でありハッピーである。幸福をこそ先行させるべきではないか。

二、阪急の福本豊選手がブロック選手の盗塁記録を書き換えた暁には、政府は国民栄誉賞をやれ。
誰も知るように、日本の球場の外野フェンスまでの距離は、大リーグのそれより短い。O選手の世界記録と称するものが、ファクターの不整合性においてデータになりえないのは、初等数学でもわかる。これに対して、塁間距離は同一であり、正真正銘の世界記録だ。捕手の肩を指摘する声も出ようが、これは数量化されていないから、誤差の範囲内にとどまるといえる。

三、ドラフトに当って、毎年、パ・リーグを拒否する不愉快な新人が現われる。いったい、キミらの教師たちは、いかなる民主主義教育を行なってきたのか。親の顔も見たいものである。与謝野晶子流に詠えば、「パを拒めと 教へしや」だ。
このような不心得な新人選手宅の門前で坐り込み運動をやろう。世間には、封筒にカミソリを入れて送るとか、爆薬を仕掛けるとか物騒な手段もあるようだが、むろんぼくらはそのような法にもとる行為はとらない。

エトセトラ。エトセトラ。きりがないのでこのへんでやめておくが、ただ一つ、近頃かまびすしい日本シリーズでのDH制採用問題だけは触れておきたい。パ・リーグ側からこの提案が行なわれた際、セの当局者は、「その意志は毛頭ございません」
と答えたそうだ。この言葉ははっきりと記憶しておこう。セ・リーグは日本のナ・リーグを自認しているらしいが、当のナ・リーグでも、次第にDH制採用の足音が高まっていると報じられているのだ。ナ・リーグがDH制施行の暁、セはついに「対米追随」をやめて、自主独立路線に踏み出すつもりなのか。その日に備えて、セ当局は、今からコメントを心に準備されることを忠告しておく。

ともあれ、いまや「パ・リーグの時代がやってきた」のだそうである。 長年パをマイナー扱いしてきた、セの機関紙とおぼしいスポーツ紙までが、ついにいまいましげに一面にパの試合を報ぜざるをえない日が到来したことを率直に喜びたい。

パの凋落の甚しい頃、一リーグ制への再編成が囁かれた。セの当局者はうそぶいた。
「もし行なわれるなら、対等合併ではない。吸収合併である」
東映(日拓)、東京、西鉄(太平洋)が次々と売りに出された。パ・リーグを安宅産業にしてなるものか。毎日新聞が潰れてなるものか。資力が許せば、一つでもぼく個人が買い取りたかったのだ。ぼくの代りに買いここまで育ててくれた各チームのオーナー諸氏に心から感謝を捧げたい。

そして、昨今のこの復興は、その多くを、オンボロチームと化したライオンズを引き受け、西武球団を人気球団に仕立てあげた堤オーナーの手腕によるだろう。

ぼくは、日本ハム・近鉄戦の7日につづいて、10月8日、西武球場に赴き、西武・近鉄戦の4万人の大熱狂に感動した。だが、ここで敬愛する堤オーナーに感謝しつつも、あえて苦言を呈したい。

もとより杞憂であろうが、もし堤オーナーが資力に物言わせ、かつての巨人軍のように横紙破りやルール違反によって、西武ライオンズに“常勝”を義務づけるようなことがあるなら、それは無用としたい。

巨人=セがそうであったような家元制は、パ・リーグには不要である。 パに“盟主”はいらない。

巨人だけが白人で、あとのチームはスーやシャイアンやアパッチなどのインディアンといった風の古いタイプの西部劇を演じつづけてきたセ・リーグとは、断乎として一線を劃しなければなるまい。

'80年代はパの時代であれ。しかし、これはセからONが引退したからなどというケチなものであってはならない。
ケネディが暗殺されたら、共和党のチャンスだろうか。 パ・リーグとは、民主主義の精神の具現なのである。

ともあれ、パ・リーグよ永遠なれ。
生き変り死に変りパ・リーグを愛す。

いつの日か、ぼくが人生から引退する時が訪れたなら、ぼくは必ずや高らかに叫ぶであろう。 「パ・リーグは永久に不滅です」
と。

-----------
宮田親平(みやた しんぺい)
1931年東京生まれ。東大医学部薬学科卒。文藝春秋編集委員を経て、現在、フリーの医学・科学ジャーナリスト。主な著書に『毒ガスと科学者』『病院えらび事典』など。
「七たび生れ変っても 我、パ・リーグを愛す」は熱烈パ・リーグファンの会「純パの会」誕生のきっかけとなった。 ------------